Taisei Iwamoto
弱みを、強みに。菅原由勢ならば|森保ジャパン アジアカップ戦記 vsイラク
Writer / 北健一郎
痛恨の敗戦を喫したイラク戦。2失点は、ともに「日本の右サイド」から生まれた。右サイドバックの菅原由勢は、自分のところを狙って再三放り込んでくる相手に対して、守備では後手を踏んでしまい、攻撃参加も影を潜めた。「自分自身の課題として持ち帰っていきたいし、向き合っていきたい」と反省の弁を口にした23歳は、どうやって這い上がっていくのか。
わずかな迷いが生んだ2失点
明らかに、狙われていた。
1-2で敗れたイラク戦、2失点が生まれたのはともに「日本の右サイド」、つまり菅原由勢のところだった。
前半5分、右サイドのペナルティーエリア内の深いスペース、通称ポケットに侵入を許すと、クロスをGKが弾いたボールを豪快に叩き込まれた。
「インサイドにランニングしてくるのはわかっていた。そうなる前にどうするか。もっと守り方はあったと思うし、(ボールを持った選手に)寄せられたかなとも思う」
逆サイドでのスローインを起点に、菅原のいる右へフィードが送られてきた。菅原から見て、手前にいた選手が頭ですらす。この時、奥にいたイラクの25番、アハメド・アルハッジャージのマークは決まっていなかった。菅原はポケットに走っていく17番のアリ・ジャシムを見ていた。
自分が前に出て寄せれば背後に走られてしまう。ボールを持っている選手にも寄せないといけない。いわゆる1対2の状況だった。結果的に、背後に走った選手にCBの板倉晃がついていったタイミングで、ボールホルダーに寄せ始めた。
ゴール前の攻防は“ディティール”で決まる。誰が行くのか、誰がズレるのか、誰が埋めるのか。あの場面、日本は選手間での共有に遅れが生じていた。そんなことはサッカーでは1試合に何十回もある。ただ、その1回目が失点につながった。あまりにも大きな代償だった。
前半終了間際には、多くの選手が「あれが痛かった」という2失点目を喫してしまう。
この場面でも判断の迷いがあった。バウンドしたボールを拾いに行こうとした時、イラクの7番、ユセフ・アミンにバスケットボール用語でいうスクリーンをかけられた。そして、前を向いて加速した25番、アハメド・アルハッジャージと入れ替わられた。
菅原が止める手段はファウルしかなった。ただ、ベトナム戦で同じように右サイドを走られ、遅れ気味にタックルに行ってイエローカードをもらい、フリーキックから失点したイメージも頭に浮かんだのかもしれない。そんな一瞬の迷いが、最悪の結果を招いた。
ダニエウ・アウヴェスのように
狙われていたとはいえ、菅原の右サイドが日本の弱点かというと、そんなことはない。むしろ伊東純也と菅原のペアは、左サイドの三笘薫がいないなかで最大の武器といってもよかった。
だから、だろう。ベトナムも、イラクも、日本の右からの攻撃を徹底的に仕掛けてきた。守田英正は「90分を通してユキナリのところに放り込まれて、『僕たちの右サイドから(攻める)』という向こうの狙いはあったのかな」と感じていた。
「ロナウジーニョを止めたいなら、ロナウジーニョらしくいられないようにすればいい」
守備に追われる菅原を見ながら、かつて日本代表監督を率いたイビチャ・オシムの言葉を思い出していた。
2006-2007のUEFAスーパーカップ決勝のバルセロナvsセビージャ。バルセロナのエースで、世界最高の選手だったロナウジーニョはほとんど何もさせてもらえず、0-3で敗れた。その要因は、ロナウジーニョのいる左サイドからセビージャが徹底的に攻め込んだからだった。
当時、セビージャの右サイドバックだったのがダニエウ・アウヴェスだった。ロナウジーニョをマークするのではなく、90分を通して攻め上がり続け、ロナウジーニョを守備に回らせ、左サイドの高い位置という得意なエリアでのプレー機会を与えなかった。
サッカーにおいて「強み」と「弱み」は表裏一体といっていい。日本代表の右サイドは、本来は「強み」だったが、そこを徹底的に狙ってくる相手の戦術によって「弱み」になってしまっていた。ならば、ひっくり返せばいい。もっと、強気で仕掛ければいい。そもそも、守りに入るような立ち位置ではないのだから。
「もっとクロスを上げるシーンを増やしたり、ポケットをとったり、オーバーラップしたりできればよかった」
23歳の若武者が迷いを吹っ切れば、日本の右サイドは再び「強み」になる。