Michel Fabian / Ebenter Samuel
EURO2024に帯同!?スイス代表を支えた敏腕裏方|“世界のヒデ”も信頼した日本人トレーナー・山本孝浩
Writer / 小津那
Editor / 難波拓未
欧州王者を決める4年に一度の祭典 UEFA EURO 2024に“日本人”が参加していたのをご存知だろうか。山本孝浩。イングランドの名門・アーセナルでスポーツセラピストとして活動しながら、スイス代表のトレーナーとして大会に帯同した。謎に包まれた日本人トレーナーへ独占インタビューを行った。
(第1回/全3回)
かつての帯同先と連続対戦
──EURO2024、お疲れ様でした。スイス代表はベスト8という結果でしたが、山本さんはどのように感じていますか?
ありがとうございます。前回もベスト8まで行き、チームとしてはベスト4を目指していたので敗戦は残念でした。長年戦ってきた選手やスタッフは「スイスのフットボールを変えたい」という話をしていて、すごく気合いを入れて臨んでいたんです。イングランド戦は、あと一歩でした……。
──スイス代表のトレーナーに就任された経緯を教えてください。
きっかけはキャプテンのグラニト・ジャカです。僕は現在イングランド・プレミアリーグのアーセナルでスポーツセラピストとして活動しているのですが、ジャカとは2022-2023年まで7年、8年アーセナルで一緒に働きました。2022年のカタールワールドカップ直前のタイミングで、スイス代表に推薦してくれた。そこからスイス代表のスタッフとしても活動するようになりました。
──スイス代表では、どんな仕事をしていたのでしょうか?
大会前には約2週間の事前合宿が組まれ、そこから帯同して怪我を予防するための施術をしていきます。ワールドカップやEUROなどの国際大会は基本的にオフシーズンに開催されます。つまり1年間リーグを戦い終えた直後なので、疲労や小さなスポーツ障害(慢性痛など)を抱えている選手が多い。そのため本大会に向けた事前合宿では疲労回復、障害箇所のトリートメントなどを行うことがメディカルチームの役割です。
大会に入ると練習や試合後のリカバリー、試合前の最終調整などがメインになります。怪我のリスクを軽減させるために選手の身体をしっかりと触って問題点を探し出し、それを改善させて次の試合に万全の状態で臨めるように調整していました。
その他で言うと、試合直前はロッカールームの準備、選手の身体の調整やテーピングを担当し、試合後は選手のコンディションチェックを重点的に行う。普段働いているヨーロッパのクラブは分業制で、いろんな業務を兼任したスイス代表での仕事は日本のクラブにいた時と似ているんですよ。
──日本とヨーロッパではトレーナーの役割が違うんですね。
僕は日本でアスレティックトレーナーというライセンスを取得し、鍼(はり)治療やマッサージの資格ももっていて、日本で活動していた時は選手のコンディション全般の面倒を見る仕事をしていました。マッサージもすれば、治療もするし、トレーニングやリハビリを担当しなければなりません。
でも、ヨーロッパは分業制なんです。トレーニングをメインで担当する人や治療をメインで請け負う人など役割ごとにわかれています。特にイギリスではPT(Physical Therapy/フィジカルセラピー)と呼ばれる理学療法士がメディカルチームの中心で、怪我人に対してはPTが全部やることになっています。
──スイス代表が決勝トーナメントで戦ったイタリア代表、イングランド代表で、山本さんは過去に仕事をされていましたが、複雑な気持ちだったのでは?
そうなんですよ。知っている選手やスタッフがいるので、決勝トーナメント1回戦でイタリア代表とは当たりたくなかったですね(笑)。準々決勝ではイングランド代表と対戦して、アジア人の自分がヨーロッパの大会で前所属チームと連続対戦したことには驚きました(笑)。
──かつて一緒に仕事をした選手やスタッフとコミュニケーションを取る機会はありましたか?
今も働いているスタッフとは久しぶりに会って話ができました。僕がイタリア代表に帯同していた時は、GKの(ジャンルイジ)ブッフォンがまだ現役でプレーしていて、今回はブッフォンにも久々に会えたんです。
試合前はピリピリしているから話しかけにくいし、試合後はすごく忙しい。選手の体の状態を確認したり、怪我がないかをチェックしたり、打撲した選手にテーピングを巻いたり。試合後すぐにベースキャンプ地に戻らないといけなかったので、片付けも急いでやらないといけない。ほとんどは軽くあいさつする程度でした。
中田英寿に誘われて海外へ
──山本さんはサッカートレーナーとして、どのような道を歩んできたのか。これまでについて聞かせてください。
1997年に専門学校を卒業後、東京の代々木にある治療院で働いていました。治療院の先輩たちがJリーグの各クラブにトレーナーとして派遣されていて、その当時の社長さんもベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)のチーフトレーナーをやられていました。そのアシスタントという形で、自分も湘南で活動することになりました。
──どのようにして活躍の場を海外に広げていったのでしょうか?
海外で活動するきっかけは、ヒデ(中田英寿)からの誘いでした。僕が湘南に行ったら、ヒデが高卒で入団してきた。とはいえ、ヒデはチーフトレーナーがケアすることが多く、僕が施術することはそんなに多くありませんでしたね。約1年半後、ヒデがイタリアのペルージャへ移籍するのですが、当時は「移籍しちゃったな」くらいにしか思っていませんでした。
──日本では中田選手とそこまで深い関係ではなかったのに誘われたんですね。
ヒデがイタリアへ行った後、僕はアルビレックス新潟で活動することになりました。そこは選手35人に対してトレーナーが僕1人しかおらず、振り返ってみると、とんでもない環境でした。そんな時、いきなりヒデから電話が掛かってきたんです。「山本さん、イタリアに来ない?来月から来てよ!」と(苦笑)。
ヨーロッパに行きたい気持ちはありましたけど、現実的にすぐ行ける状況ではなかった。「ヒデ、さすがにチーム状況もあるし来月は無理だよ」と返答したんですけど、結果的にはその1年後の2000年2月にヒデがペルージャからローマへ移籍したタイミングで僕もローマに行きました。
──イタリアへ渡るにあたって、大きな問題はなかったんですか?
当時は今よりもビザの申請が通る基準が緩かったんです。学生ビザで行って、ビザを更新する際、『本当にこれでいいのかよ』って思うくらいにいい加減でしたから。警察官がヒデの大ファンだったらしく、ヒデと仕事をしていると伝えた途端、急に態度を変えるなんてこともありましたね(笑)。